岐阜県岐阜市の岐阜高島屋(岐阜タカシマヤ)が、2024年7月末に営業を終了することを発表した。高度経済成長期やバブル期、百貨店は都市の中心に鎮座する小売業の花形だった。
しかし、それも一昔前の話。近年は各地の百貨店は続々と廃業・閉店に追い込まれている。インバウンドで再び上昇気流に乗る百貨店もあるが、それは一部に過ぎない。そのビジネスモデルは時代に適合していないとも指摘されている。岐阜市の繁華街・柳ヶ瀬に店舗を構える岐阜高島屋も直面する状況は他店と変わらない。 同店が立地する岐阜市を取り巻く環境は、それ以上に過酷だった。なぜなら、岐阜市は県庁所在地でありながらも、行政が率先して郊外化を推進してきた過去があるからだ。そのため、市街地の空洞化は深刻さを極めている。 岐阜市の人口は約39万6,000人と決して少なくない。岐阜県の県庁所在地なので県内の自治体ではもっとも人口が多い。愛知県内の自治体と比べても、名古屋市の約232万6,000人には遠く及ばないが、2位の豊田市が約41万6,000人や3位の岡崎市が約38万2,000人と肩を並べる。
公共交通の空有白地帯に県庁が
岐阜市の郊外化や中心市街地空洞化を語る上で、もっとも大きなインパクトになったのは1966年に断行された県庁舎の移転だろう。時代は高度経済成長期にあたるから、当時はマイカーが増え、駅前よりも自動車でアクセスしやすい位置が求められたことが窺える。 移転後の県庁舎は、東海道本線の西岐阜駅から約1.8キロメートルの距離にある。最寄駅から徒歩で30分未満、自動車なら10分未満でアクセスできるが、西岐阜駅が開設されたのは県庁舎移転から20年後の1986年。つまり、20年間は公共交通の空有白地帯に県庁があったことになる。 県庁舎は言うまでもなく、県の政治中枢を担う。ゆえに、それは単に建物が移転しただけの話ではない。権力構造そのものが移転し、都市構造も大きく変えることを意味する。 筆者は2005年に岐阜市に1か月ほど滞在し、かつての中心市街地だった柳ヶ瀬周辺の商店・飲食店の店主から取材で話を聞いて回ったことがある。そのときに多くの店主は、柳ヶ瀬が多くの人出でにぎわった往時を懐かしむとともに、衰退の止まらない現状を憂慮していた。そして、商店主たちから柳ヶ瀬が衰退した最大要因として槍玉にあがったのは県庁の移転だった。
路面電車の全廃も一因に?
岐阜県庁が現在地へと移転した理由は、ひとつに絞ることはできない。岐阜県と岐阜市の地方分権を企図していたという見解もあれば、当時の岐阜県知事と岐阜市長の不仲があった説、東海道新幹線の岐阜羽島駅が立地する羽島市に近くに寄せたという見方もある。 いずれにしても、県庁舎が移転したことを契機にして繁華街が衰退し、市街地の空洞化を加速させることは揺るぎない事実だろう。 そのほかにも岐阜市と名古屋市の距離が近いという事情もある。岐阜市の玄関駅でもあるJR岐阜駅や名鉄岐阜駅から名古屋駅までの所要時間は、電車で約20~30分。こんな近距離に名古屋駅があるなら、休日の買い物は名古屋まで足を運ぼうという気になる。そうした名古屋と岐阜の距離の近さが、岐阜市繁華街の衰退を招いた一因ともいえる。 そんな岐阜市が衰退した要因として、もうひとつの理由とされるのが2005年の名古屋鉄道(名鉄)の岐阜市内線および田神線・美濃町線、つまり路面電車の全廃だ。私が柳ヶ瀬を取材していた時、まだ路面電車は運行されていたが、すでに廃止されることが決まっていた。そのため、商店主からは路面電車の廃止によって市街地の衰退が加速することを不安視する声も聞くことができた。 冒頭に触れた岐阜高島屋も路面電車沿線にあり、路面電車の廃止が来店者数減につながったとも言われる。繁華街の中核的な存在だった百貨店が勢いを失えば、総じて商店街全体が元気をなくすのは誰の目にも明らかだろう。 県庁の移転もさることながら、岐阜市は明らかに路面電車を重視していなかった。それも、岐阜市の取材で痛感した。
豊橋では生き残った事情
他方、同じ名古屋圏に位置する豊橋市にも路面電車が運行されている。豊橋市の路面電車は私鉄の豊橋鉄道が運行している。豊橋鉄道は岐阜の路面電車を運行していた名鉄の系列会社で、総延長が約5.4キロメートルの軌道線と約18.0キロメートルの鉄道線を運行している。軌道線は、いわゆる路面電車のことだが、その規模はかなり短い。 そんな小規模な豊橋鉄道の路面電車だが、1982年に井原―運動公園前間が新規開業している。当時、すでに路面電車は時代遅れの公共交通と目されており、各地で廃止・撤去されていた。 豊橋市でも市電の全廃が盛んに議論され、1973年には駅前―市民病院前間が、1976年には新川―柳生橋間の柳生橋支線が廃止されている。豊橋市も他都市と同じ道を歩んだわけだが、全廃は回避された。路面電車を廃止する社会的なトレンドに対して、当時の市長だった青木茂は市電の存続を模索した。 なぜ、青木市長は路面電車の存続を模索したのか? 青木は2003年に没し、筆者は直に話を聞く機会はなかった。そのため、青木を知る人たちから話を聞くしかできなかったが、それらの話を総合すると、青木は単に路面電車が大好きだったという結論に至る。 しかし、それは青木の郷愁というだけではなかった。青木市長は全廃の危機に直面した市電を何とか存続させようと、路面電車が元気な九州の都市を視察して回った。そして、その視察をもとにして市電の活用方法を模索したという。 そんな青木市長の尽力もあり、豊橋では市電が生き残った。それどころか、逆に0.6キロメートルという短い区間ながら逆に延伸を果たしている。 豊橋市の路面電車は過去にも市営だったことは一度もない。それにも関わらず、豊橋市民からは“しでん”という呼称が定着している。豊橋市を走る路面電車が“しでん”と呼ばれる理由は「市内電車を略して市電に転化した」という説や「名古屋市に市電が走っていたから、豊橋市でも同じように市電と呼ぶようになった」と諸説あってはっきりしない。由来はともかく、豊橋市電が市民から親しまれていることは揺るぎない事実だ。
豊橋市民の尽力
そうした豊橋市民の思いは、取材を通じて伝わってきた。筆者は2005年に『日本全国 路面電車の旅』(平凡社新書)を上梓したが、その執筆にあたって豊橋鉄道や豊橋市職員などに取材した。その取材では豊橋鉄道の車庫も見学させてもらったし、イベント時に運行する3100形の車内にも立ち入らせてもらっている。 3100形の車内には伊奈彦定さんが描いた市電の絵が飾られており、案内してくれた職員が「伊奈さんにも話を聞いたほうがいい」とアドバイスされた。伊奈さん豊橋在住の画家で、とよはし市電を愛する会の副会長のほか、豊橋創造大学短期大学部で非常勤講師とし教壇にも立っていた。 当時、筆者は伊奈さんのことをまったく知らなかったが、3100形の車内を案内してくれた職員さんからNPOとよはし市電を愛する会の連絡先を教えてもらった。そして、とよはし市電を愛する会へと電話すると、電話口に出た担当者が伊奈さんへと取り次いでくれ、その日のうちに伊奈邸へ伺うことになる。 急な訪問ながら、伊奈さんは市電についてたっぷりと話したうえ、青木市長が市電を残すために尽力した逸話についても語ってくれた。 伊奈さんをはじめ、多くの豊橋市民の気持ちが市電を存続させる力になっていることは言うまでもない。そして、その気持ちを受け止める行政や豊橋鉄道が市電を存続させるために利便性向上にも取り組み、それが施策にもはっきりと表れている。 例えば、豊橋駅東口と市電の駅前電停は駅のペデストリアンデッキで直結している。そのため、JRや名鉄と市電を短時間で乗り継ぐことができる。しかし、市電が豊橋駅東口の駅前に乗り入れるようになったのは1998年からで、それ以前は200メートル離れた位置に電停があった。 わずか200メートルとはいえ、JRや名鉄と市電の乗り継ぎは少し面倒だった。電停の移設により、その面倒は解消。路面電車の使い勝手は向上した。 その一方、駅前電停が200メートル移設した影響で、駅前に広がる繁華街へアクセスが不便になるという副作用を生んだ。そうした事情を踏まえて、2005年には駅前―新川間に駅前大通という新電停を開設した。
乗らない人たちに対してもメリット
利便性の向上策は、電停の移設や新設だけにとどまらない。2008年に豊橋鉄道は新型車両のT1000形を導入。それも利便性向上につながっている。一般的に路面電車は段差がなく、高齢者や障害者、ベビーカーを押している人にも利用しやすい。いわゆる、バリアフリーがセールスポイントとして語られる。 豊橋市電が新たに導入したT1000形は超低床車と呼ばれるもので、超低床車はバリアフリーをさらに進化させて乗降しやすい。こうした取り組みにより、利用者は路面電車の利便性を再認識したことだろう。 そして、豊橋市電は利用者だけではなく、乗らない人たちに対してもメリットを感じさせる施策を打ち出している。2015年から駅前―駅前大通間の軌道敷内に芝生を植栽し、景観を向上。また、アルファルトから芝生へと切り替わったことで路面の温度は20度も下がり、それはヒートアイランド現象の抑制といった効果にもつなげている。 路面電車を大事にする豊橋市も岐阜市同様に郊外化が進んでいることは否定できない。それでも岐阜市のように路面電車を廃止しようという動きは見られない。官民が一体となって路面電車を残そうとしている。 同じ名古屋圏でも、路面電車へのスタンスは岐阜と豊橋で対照的となっている。
小川裕夫/フリーランスライター
デイリー新潮編集部